公立高校入学試験問題は記述が増加傾向
公立高校入学試験国語は記述する問題が確実に増えています。学校現場に求められる表現力の学習の項目に応答しています。
大学共通テストの記述式の見送りだがメッセージは変わらない
今回、大学共通テストの記述式は見送られはしましたが、高等学校の教育現場に求められるメッセージは伝わって来ていると感じます。
複数の情報を統合的に理解して表現するということは、試行テストの問題文から伝わって来ます。
今後、いずれ、採用のテキストは、様々の分野からのものになることは予測できますし、法律文など実用的なものからの出題は、文を構造化して理解し、回答文は言い換えてやるなどの作業を行う必要があり、理解の深度を確認することになります。
要するに、問題の聞いていることに、ポイントはなにかを整理し直して回答することなのですが、これも、実は、小学生時代からやっている生徒はやっていることで、そんなに恐れる必要はないと思います。
記述はなぜ見送られたのか?
新傾向なのかと言えば今まで、共通テストとしての出題が可能でなかったことが原因で、問題は採点の確からしさにあるとゆうことです。要はミスなく採点するのが困難であろうということなのだと思います。
大量のデータを人間が処理を行うことによるミス、採点者のレベルの確保などのリスクを考えて、基本的に共通テストが過去捨てていたものを再度拾い上げて、挑んだところが改革とも呼べるものだと思います。
大学への接続 学ぶ原点
表現力という点を育てることは、大学への接続としてかなり重要なものです。
共通テストに盛り込めば、高等学校の教育者にメッセージとして伝わります。
しかし、現実に全ての高校で教育実践ができるとは考られません。
生徒は、国立大学の入学試験という元々の目的があるので、今後、国立大学に入学して学ぶ基礎的な学力として求められているという、メッセージを受け取らなければなりません。
言語としての学習
また、題材の考え方のポイントは、現代文においては、言語としての日本語をどう考えるかという視点が必要な気がします。客観的に外国語のように日本語を見渡す能力が必要なことと、どのようなテキストもその構造を数学の問題のように論理的にとらえる訓練が必要です。
記号論理学のように考えることが近い
慶應義塾大学 岡田光弘の講義録からの引用です。
ルイスキャロル(不思議の国のアリス作者 19世紀の論理学者)の記号論理学の学び方を提示してあります。
[規則 1] Begin at the beginning. つまり「始めから始めよ」である。
[規則 2] 「完全にその章が理解できるまで、次の章に読み進むな。」
[規則 3] 分からない部分に出くわしたら、そこをもう一度読んでみること.それでも分からなかったら、もう一度読み直してみること。
[規則 4] できれば、論理学が得意そうな友達をみつけて、いっしょに読むとよい。そして、難しいところ を話し合いながら読み進めるとよい。話すことは、問題解決の最大の方策である。
[規則 5] 体を使って練習を充分行なうこと、即ち、頭だけを使って論理学を理解しようなどとは思わず、練習問題を実際に紙に書いて解いてみること、である。
論理的に考える練習はこのようにするーというわかりやすい説明になっています。
全入時代だけど学力の本質に変化はない
大学は全入時代に入ってきます。ただ、求められる本来の学力の本質は時代を経ても変わりはありません。なにかを学ぶことは、ハードルの高い内容に挑んで、自分を試すことでもあります。表現は、今も昔も学ぶべき課題なのです。
おわりに 表現することの本質
受験ということを離れて考えた方がより本質に近づくと思います。
表現するという作業は、ものごとの本質を観察する作業であり、本質を抽出して磨く作業です。原石のままでは伝わらない本質的な美しさを伝えていく使命を持っています。
今後、その使命を全うできるかどうかが、受験という中で試されることになりますが、採点基準の是非ということもあって目が批判に行ってしまい、やらなければならないことをほっておくことにならないことを祈ります。
大学入学は通過点に過ぎません。貴重な若い時間を考え抜いていくためには、表現する能力が最も強力なアイテム(宝剣)となることは間違いないのです。
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