日本の安楽死についてー生きる質と刑法(人の生命の尊厳)のジレンマ、日本とオランダの違い

日本の安楽死と刑法の関係

日本では、積極的な安楽死は認められていません。生命は尊重されるべきであり、自殺がそもそも違法とする考え方をとる説では、積極的な安楽死は、仮に医療行為であっても、同意殺人罪または自殺関与罪になってしまうことを容易には否定できません。

可罰的違法阻却説

違法だけど罰することができないとい法理です。


説明としては、難しいのですが👉

法益の担い手である本人の自己決定権は尊重されるが、生命は、もっと重たい法益だという観点から自殺は違法で、不可罰な違法なのだ(可罰的違法阻却説)という前提があって、自殺の幇助は、関与行為が他人の生命への干渉として過罰性を獲得するのだという理解があります。(他の説もありますが省略します)

同意殺人罪は普通殺人に比べ、なぜ刑が減刑されるのか

本人が希望しているので、その権利の範囲で、少し軽くなる。


やはり説明としては難しいのですが👉

同意殺人罪が普通殺人罪に比べて、刑が減軽されるのは、相手方の同意があることで、その限度で被害者の生命の放棄が認められ、自己決定の実現として自殺に準ずる事態が現出されているという事実に求められる(違法減少)ということになります。

結論としては、「積極的安楽死」は、患者の同意があったとしても、同意殺人罪または自殺関与罪の構成要件に該当する可能性を否定できないということになります。


参 考

(自殺関与及び同意殺人)

第二百二条人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。

(殺人)

第百九十九条人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

医療上の安楽死に関する判例

医療の安楽死に関する著名な判例は、名古屋高裁判決(昭和37・12・12 高等裁判所刑事判例集15巻9号674ページ)と横浜地裁判決平成7・3・28 判例時報1530号28ページ)があります。

この判決は、積極的安楽死を封殺したものとして、消極的?評価が高いのですが、

横浜地裁は、積極的安楽死の要件としては、


1 患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいること

2 患者は死が避けられず、その死期が迫っていること

3 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するための方法を尽くし、他に代替手段がないこと

4 生命を短縮する患者の明示の意思表示があること

の4要件を掲げています。


4からは、自発的でない安楽死は、すでに安楽死ではないとの解釈ができます。


医療の安楽死の類型

医療上の安楽死の類型としては、


 生命短縮を伴わない「純粋安楽死」

 生命短縮の危険を伴うにすぎない「治療型安楽死」

 不作為(一定の身体運動をしない)


という「消極的安楽死」

があって適法と解釈されています。

医療技術の進歩があって、刑法上の問題は減少してきたとは言えますが、ただ、一度装着したレスピレーター(人工呼吸器)については、取り外しについて、訴えがあった場合、不起訴となるとしても、取り調べの労力を考慮して、医療現場では慎重になっています。


また、本人との対話が不可能となる状況の中、家族との対話をどのように行うかは難度の高い問題です。

リビング・ウィルが「自発的」なものなのかの検証

口頭での要請やリビング・ウィルがあったとしても、「自発的」なものなのか?が問われることになります。圧力に屈しての内容であれば1の患者の自発的要請にはなり得ないということになります。


患者の意志を家族が推定する場合は、1なのか2なのかで判断が難しくなるのではないかと考られます。時間の経過、考え方の変化が特に問題となります。


3は、本人の幸福のためではなく、家族のため、まだ死にたくない人を殺すことにつながりかねないことから正当化するのは難しいと考えられます。

  1.  自発的安楽死:患者の自発的要請

  2.  非自発的安楽死:患者の自発的要請なしに行われる安楽死

  3.  反自発的安楽死:患者の意思に反して行われる安楽死

1の自発的な要請には、本人にとっては不利な状況であるとしてもというものでないと成立しない概念だと思います。


ただ、医療の進歩による回復の可能性によって選択の幅が広がったことで、最終的な判断を自己決定できなくなるというケースが増えていくのが実態なのかもしれません。


また、そのことで医師に依存することが多くなれば、リスクに対応する医師の精神的・経済的負担は増すことになります。


家族に自己決定権が移譲するという考え方をとる場合は、担当医師以外第三者委員会の存在が必要であると考えます。ただし、ここにも多数決の問題が存在することは否定できない、少数意見の問題から決定ということに完全性はないと考えておいた方がいいのだと思います。

自己決定と日本、オランダとの違い

日本人では、自己決定という観念が確立していないということは感じます。「積極的安楽死を認める論拠としては、死に関する自己決定・自由というよりもむしろ、激痛に苦しむ余命いくばくもない患者を苦しみから救うという、いわば「究極のケア」ということがふさわしいといえる」(「よき死の作法」をめぐって 熊本大学生命倫理研究会討論集 高橋隆雄 安楽死についてー日本的死生観から問い直すーから引用)


ただし、積極的安楽死が可能なオランダでは、医者と患者の信頼関係がしっかりしています。日本はどうなのか?ということが重要なのですが、そこにいたるまでのコミュニケーションがしっかりしているオランダとは比較にならない、そもそも関係が存在していないところに法制化は無理だろうということです。この場合の医師への依存度を考えると自己決定の内容の検証は綿密になってくるだろうことは予想できます。


安楽死という言葉とは異なる、そもそも非自発的な死を認める方向にならないとは限らない、「日本は個人の生命を重んじるという社会であるのか」を問い直しつつ進む話であると思います。


おわりに

人に限らず命は重たいものだと思います。どのような状況でも生きていけることは、大切なのですが、「生きる質」など個人の考え方の問題があって、答えがでません。少なくとも、刑法という政策の範疇に収まりきれない問いが多く含まれています。


安楽死の可能な国においても決してイージーに実行しているものではなく、本来、殺人は、違法なものであるというところから出発しています。


集団としての戦争で人は人を殺す(それは、機会の問題でどのような人でも可能性がある)という現実から人間は逃れられない、安楽死が単純な装置にはなり得ないという確証は何もないというところから、個人の生きる質とのジレンマの中を進んでいく道なのだと思います。


ボブの死 ありがとうボブ (おまけ) 

ビッグイシュー英国版のジェームズ・ボーエン元販売員が路上で出会い、ホームレス状態や薬物依存から抜け出すきっかけとなったねこの「ボブ」が今年6月に交通事故で亡くなりました。ボーエンは、ボブは「唯一無二の猫」だった、ある人から「人の死に涙するより、その人が存在したことに微笑みなさい」と言われた、「満面の微笑み」を浮かべる日がいつかくるだろうと語っています。(日本版 VOL389)


「苦しみの教え(pedagogy of suffering)」(A.Wフランク)があるということことは疑う余地もないことです。


苦しみは統制されるものではく、根絶されるものではありません。それを、受け入れる考え方は、近代の科学の進歩を支える根源的な考えとは正面からぶつかることになると思います。


麻薬中毒者のボーエンはイギリスの近代医療の仕組みで麻薬から離脱しています。それは、何かをしたからうまくいったという単純な話でもありません。生命を失うギリギリのところで、奇跡のように何かを教えられた生き方ができたーということなのかもしれません。


言い換えれば、苦しみの教え=奇跡なのかもしれません。