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日本人の死生感ー人権としてのあり方 バイオエシックス(生命倫理)から

医療・法律としての権利

医療技術の発展は、生死を医療が分ける可能性とそれに伴う選択肢が増えました。


このことは、人間の死と生の概念を根本的に見直しをかけなければならなくなったとも言えます。


老年期においては、「どのように死を選ぶか」をはっきり言えるようになり、治療の選択は可能になって来ています。ただし、どこかで、特に明確な意思表示をしておかないと、病院死を選択した場合は、死の直前の措置は司法との関係の意識から、難しい場面があるとは思います。病院は本来治療を行うところであることを忘れてはなりません。生命の尊厳と自己決定の権利との間にはまだ調整しきれないものが多くあります。


特に自己決定の権利の大きな流れは、インフォームド・コンセントという言葉と共に普及していったものと思われ、1957年のカリフォルニア州控訴裁判所で、 医療過誤裁判の判決の基準になった方理論上の言葉です。ケネディによって1962年消費者保護特別教書で消費者の権利(安全、知る、選ぶ、意見を聞いてもらう権利)がうたわれ、それを背景にアメリカで「患者の人権運動」は育ちます。


1960年代は、まだ、日本でもガンは病名が明らかにされなかったのですが、なお、1990年前後でも15%程度、2002年(平成14年)に最高裁が、「医師は患者家族への告知を検討する義務がある」とする判断を下すことで、流れが大きく変わり2016年には90%を越えて来ます。


この数字は、治療法の選択も関係しているし、緩和ケアなど残存の期間の生き方の選択にも関係していて、患者の知る権利でもあると考えられています。


権利という言い方は極めて西洋的なものですが、日本人からするとやや借り物の感じは否めません。ただ、この考えのおかげで、医療という権威や科学の進歩から自分を守る礎を得ているということです。


もとより、人間の死に対する究極の「救い」の問題は、科学ではないし、そもそも個別の心情の問題であって、法やガイドラインの判断はなじまないところで、その調整は難しいと思われます。


メディカル・バイオエシックスは、患者の変化する精神的と肉体、医療従事者と患者やその家族などの日常生活に重きを置いた医療倫理について考えるもので、そこでは自己決定権の存在を意識しています。


インフォームド・コンセントもバイオエシックスも法という媒体の中で考えるということであり、生命のコントロールと死の定義の問題、医師と患者の関係性、死にゆく者の看護の問題、特に、戦中・戦後問題となった医学研究及び人体の実験の問題と現代の問題、医療技術と社会の問題(医療配分、ヘルス・ケア、社会正義と個人の権利の問題)を考察してゆくことになります。


東洋の死

東洋の死、日本人の死ということを考えると、権利という枠を超越して死は無常観の中にあり、最後は何もなくなるということを受け入れる精神構造にあると思います。


願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ


これは、西行の歌ですが、自ら望んだ時期になくなっていることに驚きがあります。


この死は、平安時代の死ですが、死生観の究極でもあるとも感じます。望んだような死は、権利概念で意識されるよりずっと以前から存在していたとも言えます。また、死と生への尊厳の均整の取れた心の美しささえ感じます。ただ、現代の死からは遠く隔ったたものだと思います。


また、西行の場合、地位と家族を捨ててしまう強い意志を持った人であったことは伝えられています。西行が自己の命日とした日の翌日に亡くなっていることから、西行なりにこのようなものが自分の死であるということを周囲に納得させているのではないかと推察されます。

近代以降の死ー西洋思想輸入以降

明治という近代に入り、漱石の小説「門」にもあるように、全てを捨て去っていくことができずに「門」をくぐって前に進めない自我の存在を意識することになります。近代の日本人は、西洋の合理論を受け入れることで、隣にいた死を理解できなくなってしまったということでもあります。


旧来の日本人の心と近代的自我の差は容易に埋められるものではないことを感じていたのだと思います。合理的精神は、旧来の精神との間に軋轢を生んでしまったとうことですが、

生命科学の進歩は、クローン人間、代理母、優生主義的な選択的人工妊娠中絶など、漱石の時代からは想像もつかない問題に直面することになりました。


漱石が感じていた自己の死すらわからなくなってしまうという感覚はいまだに解消のできていないーむしろ混迷と問題の裾野を広げているものと感じます。


日本人の経験的な観点と現代医学の関係

実証的な医学に対処するするには、結局、インフォームド・コンセントやバイオエシックスなどの考え方を学習して現実に対処することが必要で、経験で理解し考えるという作業では、現代医学の進歩に通用しなくなっている、また、その傾向はますます強くなると考えられます。ただ、日本人が自己決定を理解していけるのかはこれからなのかもしれません。


法の「死」の意味ー陰影のない死

法は「死」についてなにも答えを提示するものではなく、権利の配分を決めるミニマムな仕組みであると言えます。


民法第882条(相続の開始の原因) 相続は、死亡によって開始する。


の意味は、死亡すれば、権利能力がなくなり、財産の帰属主体になれなくなるために相続が開始されるー相続については、制度設計上生前でも可能となるので、「死亡」だけが、相続の発生事実とするということをあらわしています。


自己決定とは関係のないところで

老人福祉施設の誤飲による窒息死に関する責任を問う裁判などは、「死」が債権化していることを表しています。法律上の死は、本人が権利を全て失う瞬間であって、利益は、民事であれば相続人の問題となります。刑事であれば、「ケア」という流れの中で、何を犯罪として構成するのか疑問でもあります。






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