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散骨する自然葬の是非ー共災の時代に死者の価値を再認識することこそ大切なこと

法律的な死・医学的な死

死とは何かという命題は、家族の心と死者の意義に視点を移動させると、法律的な死、医学的な死とは違う流れで語られることになります。


人間の医学的な死は、このよう状態が死として認められるという線引きで、生物としての死とは違います。医学で死を決めても、細胞は死んでいないという状態で、それは、完全な死ではないということで、生死の判別は厳密には難しいことになります。

法律上の死は、ペーパー上の死で、持っている権利がなくなるという権利上の死ということになります。失踪した場合の推定死などを想像するとわかると思います。



宗教的な弔いとの切断

法律的・医学的な死は、また、宗教的な弔いとは切断があって、葬儀では、あたかも、一つの流れのように考えられていますが、その認識は誤っているということになります。宗教と家族の心の問題も流れるようには解消していかないところです。そこにも世襲的な考え方 の切断があります。


宗教の問題は、弔うという行為を行う人・家族の問題へと繋がっていきます。

かつては、弔いは、先祖から受け継いだ宗教を引き継いでゆくということで片付いていました。そのような時代は、終わりつつあって、法的な争いも起こる可能性を内包しています。


そもそも、なぜその宗教で祈るのかという問題は、意味を再考することが生きている人にとって必要となるのではないかと思います。

日本人と仏・神との関係

日本人の感覚では、仮に仏教ということを考えると、救済ということが中心にあると思います。


仏教は、救済ということに妥協がないー「無量寿経」の中で、若い修行者のアーナンダの誓いは、「世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に、地獄や、畜生や、飢餓の環境におちいるものや、阿修羅のむれがあるようであったら、その間はわたくしは、〈この上ない正しい覚り〉を現に覚えることがありませんように」(中村元 浄土三部経 無量寿経 岩波書店)と如来に宣言します。アーナンダは、自分以外の救済がなければ、自分の救済は求めないといことを宣言しています。理想的な世界を仏教は教義の中心としています。

日本の神であれば、救済ではなく、様々な災も含めた自然現象の中に神の存在を見る、その中には救いも入る、ごりやくもあるという感覚だと思います。自然が荒れて猛威を振るうということを地神の慟哭ととらえる感覚も、もらった笠のお礼参りに笠地蔵の金品を持ってくることも同時に理解できるのではないかと思います。

一神教の感覚から

この全く違う、神仏というものを混合した感覚は、一神教の世界に住む人には理解はできません。ただ、日本では、救済の役割をもつ仏教が、様々な現象としてある自然に近い神の世界を包摂しているというー統合したものとして日本人は把握していて、全く矛盾なく同居しているのだと思います。

墓所の維持

自然葬というのは、元々、日本人が持っていたものに由来する神・自然信仰に近いものなのかと思います。

宗教を維持することは、ご先祖様になるという習俗的保守層があってできることです。現実に核家族化、精神的・心理的な負担を少ない人数で支えていくことがすでに、習俗的保守層の減少で難しくなったのだと思います。


ここに、自然葬は、社会的な現象として、神と宗教(仏教)の切断の兆しが見えるとも思います。

今は、共災の時代です。この時代を生き抜くことは、墓所の維持、住居の維持、何かを存続することすらかなわないこともあります。死者と関わる気持ちさえあれば、そのことでよしとすることが大切なことです。

共災とは

共災の時代とは、文字通り災害と共にある時代ということです。

高橋隆雄(熊本大学名誉教授)は「共災」の論理の中で、関東大震災以降の日本人の意識を点検することで、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震の犠牲者の生の意義を高めようと試みています。

『死者とかかわる仕方が、死者の生の意義を高めたり貶めたりする。』(高橋)


法令との関係

個人が、火葬の後の灰を撒いて弔うことについては、法令上では、その行為に墓地埋葬法の適用がないということだと思います。


墓地埋葬法上、「墓地」とは「墳墓を設けるため」の区域、「墳墓」とは「死体を埋葬し、又は焼骨を埋蔵する施設」をいい、「埋葬」とは「死体を土葬すること」と定義され、焼骨の埋蔵とは「土中に埋めて収蔵すること」をいうと理解されています。


焼骨を地面に散布するだけで土中に埋めない場合、その行為は墓地埋葬法上の「焼骨の埋蔵」には 該当しないことになります。


散骨が「焼骨の埋蔵」に当たらない以上、墓地埋葬法との関係では散骨は墓地以外 の区域で行っても差し支えないことになります。


理屈上、散骨をさせるための区域は「墓地」には該当しないから、いわゆる散骨場の経営は、そもそも墓地埋葬法上の許可を受ける必要がなく、宗教法人・ 公益法人以外の非営利法人や営利企業でもこれを行うことができることになります。


なお、反対に「散骨」と称していても焼骨を土中に埋める場合には、その行為は「焼骨の埋蔵」 に当たります。


ただ、市町村によっては、散骨を禁止している条例をもつ市町村もあります。


営利目的の散骨事業者と住民とのトラブルを念頭においたものだと思います。また、個人の散骨については施行規則で条件付きで認めているともよめる条文です。


秩父市環境保全条例では、

(散布の制限)

第36条 何人も、墓地以外の場所で焼骨を散布してはならない。ただし、市長が別に定める場合は、この限りでない。

(焼骨の散布の特例)

秩父市環境保全施行規則

第23条 条例第36条の市長が別に定める場合は、焼骨の散布が次の各号のいずれにも該当すると認められる場合とする。

(1) 焼骨の散布に係る事業者がその事業を行うために設けた場所でないこと。

(2) あらかじめ、隣地土地所有者から同意を得ていること又は隣地境界から100メートル以上離れていること。

(3) 公衆衛生その他公共の福祉の見地から支障がないと認められる場合であること。

2 前項の場合において、焼骨の散布を行おうとする者は、あらかじめ、その旨を別に定める様式により市長に届け出なければならない。

3 市長は、前項の届出があった場合において、特に必要があると認めるときは、その届出をした者に対し、当該焼骨の散布に関し必要な報告を求め、又は当該職員に、当該焼骨の散布に係る場所に立ち入り、必要な調査若しくは質問をさせることができる。


(参考)

条例の是非については、条例による規制と配慮義務について考える余地があります。

最高裁平成16年12月24日第二小法廷判決(民集58巻9号2536頁)と比較検討

別冊Jurist No235 November 2017 行政判例百選1第7版 58頁


散骨を条例で止めることは、実際には難しい点があると考えられます。法律との関係で条例は、補完的であれば成立するのですが、規制する場合の妥当性を市町村は説明できなければなりません。(3)の公衆衛生その他公共の福祉の見地ーという条文は市長の自由裁量の幅が大きく、市民の権利とのバランスが取れているかどうかという点が問われるのではないかと思慮します。

おわりに 「自然葬」の是非 

自然葬の是非は、「死を無駄にしないように生きる」ということが守られるという意味では、死者として存在するものに対する敬意として行い、ただの形式に陥らない限り、意義のあることだと思います。死者とのかかわる仕方は、それぞれの状況判断なのだと思います。


死は理解ができない、しかし、死者の存在はわかるということが最終的に決定していくときの助けになるのだと思います。


日本は急速に老いていくことになります。墓所を守る選択のできる人、そうでない人、それぞれ葬送の権利はあると考えられます。




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